大汝牟遅神社の流鏑馬/伊作流鏑馬「ヤッサンサァ」
伊作流鏑馬は日置市の伝統行事です。 天文7年(1538年)島津分家伊作家10代兼相州家3代島津忠良(日新公)は,2度目の加世田城攻めに際し,氏神の諏訪神社に祈願を行い,勝利が叶えられた暁には毎年流鏑馬を奉納することを誓って出陣しました。すると,その夜のうちに攻略でき,それ以来,毎年奉納するようになったと伝えられています。
※天文7年(1538年)は戦国時代 - ちなみに織田信長は天文3年(1534年)生誕
流鏑馬神事 - 由緒 (鹿児島神社庁より引用)
鹿児島県日置市吹上町(旧伊作庄)に鎮座する大汝牟遅神社は、大汝牟遅命・玉依姫命を主祭神とし、相殿に応神天皇・神功皇后・仲哀天皇・仁徳天皇を祀り、明治以前には大汝八幡宮と称した。
『神体調書』によれば、「大己貴神玉依姫神者上古よりの神社而観請年記等相知不申候 四柱大神者文治二年(1186)島津豊後守忠久代に関東より観請」したといい、「忠久公八幡大菩薩を鶴岡より観請し宮殿を伊作庄中原村楠屋敷に建立す」とある。
また『地理纂考』には、「伊作八幡ハ当村ニアリ創建年月詳ナラズ社伝説日相模国鶴岡八幡ヲ迎祭ストイフ、一説ニ大和国三輪神霊ヲ迎祭ストモイフ、三輪ハ即チ大己貴神ナリ、按スルニ三輪神ニ鶴岡八幡ヲ合祀シ大汝八幡ト称スルナルベシ」とあり、中世の鶴岡八幡宮の信仰がこのように、守護・地頭によって地方に伝播され、かつてそれが在地の神社と併せ祀られることの多かった一つの証左であるといえる。
流鏑馬の由来 (鹿児島神社庁より引用)
当社の流鏑馬は「ヤッサンサァ」と呼ばれ、伊作流鏑馬は薩隅日三州統一の礎を築いた伊作島津氏日新公(島津忠良)が天文七年(1538)に加世田攻め成功を祈願して奉納したことに始まるとされる。
現在、流鏑馬は当社の例大祭十一月二十三日(古くは十月二十五日)の浜下り神幸祭の後、行われている。
『文政七年伊作名勝志』には、「流鏑馬之儀ハ前条御神輿鳥居ヨリ内ニ還幸有之候節直ニ鳥居前馬場江乗出シ上ケ馬有之射手弐騎所郷士宮内宮下両家ヨリ代々家筋ヲ以相勤来申候」とあって、宮内・宮下両家の世襲によって継続されていたが、近年「流鏑馬保存会」が結成され、氏子諸氏によって伝承されている。古くは両家の屋敷内に籠所が設けられ、二人の射手は七日間別火精進し、毎未明、吹上浜で潮垢離をとったとされるが、現在では例大祭当日に射手が塩浜入りを行う。
また『上井覚兼日記』には、 島津義久が天正2(1574)年10月25日に大汝牟遅神社に参詣し、流鏑馬を観覧したことが記されています。
流鏑馬神事式次第 (鹿児島神社庁より引用)
例大祭の神社での祭典、浜下りの後、神社正面鳥居の前で「あげ馬」の式が行われる。あげ馬は神前に向かって始めに、代表が願文を奏上し、次に射手二人が交互に馬上より流鏑馬法・除魔法の九字を切るというものである。
あげ馬の後、別当二人が口取りして馬駆の馬場本の位置に向かう。流鏑馬の馬場は八幡馬場(竪馬場)と呼ばれ、直線で200メートル、40メートルから70メートル間隔で平木板九枚を組合わせた的三本が置かれる。射手の装束は狩衣に射小手、行縢むかばきをはき、箙えびらの征矢は五筋、綾あや蘭い笠かさを冠る。
馬駆けの第一回目は「素馳」と言い、手綱を取ったまま馬場を駆ける馬ならしで、二・三・四回目は矢を放つ。駈足四回ともいわれる。この時別当は一人馬駆けの前に馬場を手綱を振り回しながら走って道を祓い、他一人は射手の射た矢を拾って後を追う。
的に矢が的中するたびに歓声が上がり、的に向かって参拝者が殺到する。平木板の破片は魔除けとして人々が持ち帰る。
鹿児島県内には三例が現行の流鏑馬神事として確認されているが、旧薩摩領内としては唯一のものである。
紹介ページ
鹿児島神社庁
鹿児島県の伊作流鏑馬紹介ページ
鹿児島県観光サイト(かごしまの旅)
九州旅ネット
日置市
伊作流鏑馬
開催場所
鹿児島県日置市吹上町中原 大汝牟遅神社
開催日
毎年11月23日開催予定
主催者
伊作流鏑馬保存会
お問い合わせ先
日置市吹上支所教育振興課
TEL:099-96-2115